沿革

Company History

丁稚奉公から独立

大正初期の小西儀助商店

大正初期の小西儀助商店。道修町の商家では丁稚の腕が重要な役割を果たした。店先の大八車の多さで繁盛していることがわかる

岩瀬健次郎は大正十年(一九二一)、十三歳の頃に大阪・道修町の小西儀助商店(現コニシ株式会社)へ丁稚奉公に出た。以来、まだ遊びたい盛りの十代を、健次郎は働くことに費やしてきた。

やがて時代は大正から昭和へと移り変わり、健次郎もこれまで以上に仕事にはげんだ。学業よりも働くことを優先させてきた青春時代ながら、苦労というものが不思議と顔に出ない質らしい。二十歳になる頃には、奉公先の主人はもとより、出入りする業者やお客様からもかわいがられていた。

世界恐慌の傷跡がなお残る昭和六年(一九三一)。二十三歳になる健次郎は勤続十年という節目を迎え、そろそろ「独立」の二文字が頭をよぎり始めていた。
そんな健次郎に、幸運が訪れた。頼母子講のクジに当たったのだ。頼母子講とは一定の構成員が掛け金を出し合い、クジや入札を行って、当選した構成員が金品を受け取れるという、日本の金融の一形態である。抽選に当たった健次郎は、千円という大金を手に入れたのだ。千円あれば、当時としては事業を始めるための軍資金として十分の額だった。

業績を伸ばしている小西儀助商店にこのまま勤めていると安泰だが、やはり男として自分がどこまでやれるのか挑戦してみたい。もちろん、最初からうまく波に乗れるなど、甘い考えを持っていたわけではない。

その頃、健次郎には将来を誓いあった女性があった。

こうして、健次郎の決意は固まった。世話になった小西儀助商店にも独立の旨を伝えると、快く健次郎を送り出してくれた。それはまさに絵に描いたような円満退社だった。
「まだほんの子供だった私を商あき人んどとしてここまで育ててくれ、しかも外へ飛び出そうとすると、頑張れよと背中を押してくれる。……本当に、感謝してもしきれない……」
 胸にたぎる熱いものを噛みしめるように、健次郎は拳をギュッと握りしめた。
「この恩を返すには、私が成功することが一番だ。何年、いや、何十年かかってもいい。仕事を通じて社会に貢献できる立派な人間に、必ずなってみせる!」

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もう三か月、もう三か月

志を高く掲げた健次郎の行動は早かった。退社と同時に、大阪市南区高こう津づ町に昭和六年(一九三一)岩瀬健次郎商店を創業した。

旧小西儀助商店

現在「小西家住宅」として重要文化財に指定された、旧小西儀助商店

とはいえ、人を雇う金も仕事場を新たに借りる金もない。健次郎とシゲ子は、自宅の一間を土間にして、そこに商品を並べて商いをスタートした。扱う商品は、変性アルコール、流動パラフィン、グリセリン、白蝋、カストル油(ひまし油)など整髪や化粧品原料。小西儀助商店などから仕入れ、化粧品メーカーを中心に顧客を開拓しつつ、先方から要求される品々があればそれらを必死に探す。

小さな商店だからこそ、小回りの利く行動力が強みになる……そう考えた健次郎は、毎日のように自転車で行商に出かけた。まだ夏の名残が色濃く感じられる九月、数十キロもの道のりを自転車で走り続ける健次郎は、顔も腕も真っ黒に日焼けし、日に日に精悍さを増していった。

だが、健次郎が独立したのと時を同じくして満州事変が勃発。翌年の昭和七年(一九三二)には上海事変、国内でも五・一五事件が起こるなど、世間は不安な情勢になっていった。健次郎の商売も努力の甲斐あって利益は上がっているものの、売掛金の回収がままならないこともあった。

「もう三か月、もう三か月」というのが、いつしか健次郎とシゲ子の合言葉のようになっていった。資金繰りは苦しく電話も引けない状態ながら、もう三か月だけ歯を食いしばって続けてみよう、と……。

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女性の社会進出を機に

昭和八年(一九三三)には、梅田・心斎橋間をつなぐ大阪の地下鉄第一号線(現在の御堂筋線)が開通。女性の職場進出も増え、それにともなって街を歩く女性の姿も和装から洋装へと変化していった。

相変わらず自転車で街から街へと走り回る日々の中、健次郎がその移り変わりを見逃すはずがなかった。

昭和初期、パーマネント・ウェーブ

昭和初期、パーマネント・ウェーブは「電髪」と呼ばれ、その名の通り、髪をロッドで巻き、それを電気で加熱してウェーブを作った

帰宅するとすぐ、健次郎はシゲ子の意見を求めた。
「そうやねぇ……たしかに働いてる女性だけやなく、普通の奥さんにも洋服やパーマネントは普及してきてると思うわ」
「やっぱり! ということは、今後ますます女の人は外に出て、自分で稼ぐようになるから、化粧に対する関心も高まってくるやろ。シゲ子、こりゃチャンスやで!」
「うちで扱ってるのは化粧品原料やろ。それを直接、化粧品メーカーに販売しようと思う。品質は間違いない。自信持って売れる。それをわかって、ちゃんと納得してもらえたら、絶対に顧客は開拓できるはずや!」

昭和九年(一九三四)、健次郎はまず変性アルコールを化粧品業界に販売しようと必死に営業を続けた。アルコールは飲料なら酒税がかかって高くつくが、飲めない処理をした変性アルコールは酒税がかからず安く販売できた。当時の化粧品用アルコールは匂いがきついとか、色が悪いとか問題が多かったが、それらを解決してメーカーが使えるものにして販売した。そのままで販売するよりも、手を加え、付加価値をつけた商品を売るという、この姿勢は今も続いている。

化粧品業界の動きも活発で、ライオン潤性ハミガキや資生堂ホルモリンクリームなど、次々に新商品が発売されていった。
 昭和十年(一九三五)二月十二日、健次郎はシゲ子を籍に入れ、結婚した。それまでも二人で住み、苦楽をともにしてきたが戸籍上は別であった。改めて足元を固めて、再出発の思いがたかぶる健次郎であった。
 昭和十一年(一九三六)、化粧品に売上税が課せられるようになった。臨時措置法制定により化粧品香料の輸入も禁止された。

健次郎の読みは当たっていた。女性の化粧品に対する関心は右肩上がりで、昭和十二年(一九三七)には資生堂が花椿会を結成し、チェーンストアを六千店にも増やしたのだ。

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