沿革

Company History

回り始めた歯車

昭和11年8月、化粧品業界6組合連合広告「化粧品の使命」

昭和11年8月、化粧品業界6組合連合広告「化粧品の使命」化粧品が国民の保健衛生上、いかに良いかをアピールしている

岩瀬健次郎商店が最初に飛躍を遂げたのは、昭和十二年(一九三七)のことだった。小売りだけではなく、化粧品原料を加工した付加価値の高い製品の生産を始めたのだ。
その時健次郎夫妻を含む従業員は六名。毎日毎日、健次郎は率先して朝早くから夜遅くまで働き続け、休日は月にたったの一日しかなかった。

日中戦争が勃発するなど、社会情勢は相変わらず不安定だったが、そんな不穏な空気をものともせず、岩瀬健次郎商店は着実に業績を伸ばしていた。自ら身を粉にして働く健次郎のことを、従業員たちは「大将、大将!」 と呼んで慕っていたのだった。そんな中、突然の悲劇が起こった。梱包作業などによる過労から、シゲ子が肺病を患った。

昭和十三年(一九三八)五月十三日、約一年の闘病生活の後、シゲ子は帰らぬ人となった。

しかし会社の長として、やらなければいけないことが山積みの健次郎は、いつまでも悲しんでいるわけにはいかない。
一年をかけて西国巡礼を終えた後、健次郎はシゲ子の実妹である光子との再婚を決意。
さっそく大阪市南区塩町一丁目の御蔵跡に倉庫を借りて、新たに三名の従業員を加えた。岩瀬健次郎商店が、さらなる飛躍へと一歩を踏み出した。

そして健次郎はますます奮起し、次々と行動に移していくのだった。

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戦乱の世、動乱の社会

昭和十四年(一九三九)、日中戦争の拡大と共に、物資の欠乏は本格化していった。

「岩瀬健次郎商店としては、今こそ何か新しいことをやらねばと思う」
「新しいって、この時期に?」
 驚く従業員の顔を見て、健次郎はにっこりと笑った。
「化粧品メーカーの下請けをやって、うち独自のベーラム(頭髪用香水)やヘアーローションを生産するんや。」

昭和15年、生活物資配給用の番号切符(毎日新聞社提供)

昭和15年、生活物資配給用の番号切符(毎日新聞社提供)

逆境に立たされたときこそ、攻めの姿勢で前へ進む。商売人としての勘が、健次郎はもとより、従業員たちの士気をも奮い立たせた。

そして、大阪市浪速区西円手町に関西薬粧化学工業所を設立。さらに翌年には大阪市東成区東今里町に三百坪もの工場兼原料倉庫のための土地を購入。岩瀬健次郎商店の勢いはとどまるところを知らなかった。

その頃何より、健次郎夫妻にとってうれしい出来事が待っていた。妻・光子が女の子を出産。三十二歳の健次郎が、とうとう父親になった。

そして、昭和十六年(一九四一)、健次郎は資本金十万円を元に、壽化学工業株式会社を設立。事業内容は「塗料、糊料、エステル類、化粧品の製造販売」「蝋、油脂、鉱物油などの加工精製販売」「エッセンス製造販売」など、多岐にわたるものだった。

また、健次郎は事業で得た資金を土地の購入にあて、少しずつ買い増ししていった。当時、不動産にはあまり価値がなかったため、「土地を買ってくれ」と言う人も多く、健次郎の所有する土地は着実に拡大していった。そして、大阪府羽曳野市のその土地はこの年、とうとう一万坪にもなったのだった。

昭和十七年(一九四二)には食糧管理制度が導入され、国民の生活にも戦争の影が色濃くなって行く中、ひと筋の光をもたらしたのが、健次郎の長男・健治の誕生だった。さらに、昭和十九年(一九四四)、光子は、三人目の子供を宿した。

しかし、終戦の年となる昭和二十年(一九四五)三月、アメリカ軍のボーイングB29爆撃機によって、大阪市内は猛火に包まれ、健次郎の事業も大打撃を受けることとなった。岩瀬健次郎商店を創業した、あの南区高津町の店舗も、南区塩町の御蔵跡に借りた倉庫も、浪速区西円手町に設立した関西薬粧化学工業所も、すべて全焼してしまった。
 そして、この年の八月、広島、長崎に原子爆弾が投下され、日本はようやく終戦のときを迎えたのだった。

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戦争からの復興

終戦後、化粧品業界の受けた打撃も大きく、空襲により多くのの工場が被災した。
 岩瀬健次郎商店も例外ではなかったが、東成区東今里の工場兼倉庫が残ったおかげで、健次郎は、そこに工場と営業所を移転した。そしてまずは、仕入れ業者との関わりを深めることから始めた。

岩瀬健次郎商店と壽化学工業が合同で松茸狩りへ

岩瀬健次郎商店と壽化学工業が合同で松茸狩りへ

「大将、今日も仕入屋さんの所へ?」
 毎日のように様々な業者の元へ足繁く通う健次郎に従業員が声をかけると、健次郎は決まってこう答えるのだった。
「そうやで! 利は元にあり! 仕入れたええ商品はええお得意さんをつくってくれるんや。へんな原料つかまされたら、全部あかんようになる。仕入れが大事なんやで」

仕入業者は大切な存在……これは、健次郎が常日頃から心に刻み、自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。とくに戦後の物資不足がはなはだしい世の中において、仕入業者との関係は命綱である。そう実感しているからこそ、健次郎はその関係を深めることに心血を注いだのだった。

その甲斐あって、なんとか原料を工面しながら、工場の操業を維持することができた。壽化学工業で主に製造していたのは、クリームや乳液、髪油、ポマードなど。ガラス瓶が不足していたため石油缶に詰めて販売するような状態だったが、物がない時代とあって、作れば飛ぶように売れていった。

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いよいよ法人組織へ

岩瀬健次郎愛用の五つ玉算盤、裏面に社名と住所が刻んである

岩瀬健次郎愛用の五つ玉算盤、裏面に社名と住所が刻んである

ある日、健次郎が十代の頃に丁稚奉公していた、あの小西儀助商店の小西泰造社長が大阪市東区道修町の土地を使わないかと声をかけてきてくれた。道修町と言えば大阪でも由緒ある土地柄、健次郎はありがたいことと、涙の出る思いであった。

そして十一月、その土地に岩瀬健次郎商店の新しい店舗兼住居を建てることができた。そこは、現在の岩瀬コスファ大阪本社が建つ場所である。

その年の七月二十九日……。健次郎は、ここで大きな決断を下した。資本金百万円で、岩瀬健次郎商店を法人組織にした。
「株式会社岩瀬健次郎商店の誕生だ!」
 自身を代表取締役社長に、弟の光治郎を取締役に据え、会社はますます上昇気流に乗っていった。なんと同年の十月には資本金を倍にして、化粧品・整髪料の原材料の販売先も、クラブ、明色、テルミー、ベルマン、ピアス、オパールと広がっていった。

昭和二十五年(一九五〇)、民間での輸入が解禁され、化粧品業界でも香料、蜜蝋、流動パラフィンなどの原料が海外から自由に輸入できるようになった他、業界を拘束していた公定価格も順次撤廃された。また、同じ年には朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍への物資やサービス業の需要が増加。日本国内の産業も活況となり、景気は好転した。

株式会社となった岩瀬健次郎商店もこの時勢に乗り、さらなる拡大を図っていった。

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初のヒット商品、マーブルスキン

実は、健次郎は終戦直後から新たに始めていたことがあった。壽化学工業での化粧品製造だ。その名も、プリンス化粧品。昭和二十一年(一九四六)には正式に商標登録も行い、少しずつ商品を開発していった。

活躍したプリンス化粧品の美容部員たち

活躍したプリンス化粧品の美容部員たち

「このクリーム、ええ肌ざわりやこと……」
「あぁ、マーブルスキンか……栄養クリームやな。ふむ」
 実際に使ってみた光子の感想は、最も身近な消費者の声だった。光子が思わず口にした通り、マーブルスキンは壽化学工業にとって初の大ヒット商品となった。皮膚トラブルなどを引き起こす粗悪な商品も多い時代とあって、マーブルスキンのたしかな品質が、女性たちに受け入れられたのだ。加えて、岡本太郎のデザインした斬新なガラス瓶も、マーブルスキンの人気を後押しした。

昭和三十二年(一九五七)には、販売代理店に派遣する美容部員が二百名を越えた。

そこで健次郎は、さっそく次の手に打って出た。高級化粧品の訪問販売を目的に、妻・光子を社長とした株式会社ハイネオを創立したのだ。製品の企画も光子が行った。

また、メイクの選定はもちろんのこと、ガラス容器のデザインなど、こだわりの化粧品を作り上げていった。容器を含め、ほとんどがオーダーメイドであったため、ハイネオは高価なものとなり、訪問販売活動を行う個人販売員からは、不安の声も上がった。

すると、光子は胸を張って答えるのだった。
「ハイネオのモチーフは『科学する化粧品』『一歩先を行く技術』です。安全性には細心の注意を払ってるし、使ってみればきっとその良さに納得できるはず。自信を持ってお客様に勧めてあげてください」
 その言葉通り、しばらくすると顧客が増え始めた。

健次郎の方も攻めの姿勢で新たな挑戦に乗り出した。昭和三十三年(一九五八)、関東地方にも積極的に販路を広げるため、東京営業所(東京都千代田区六番町)を開設することを決意したのだ。また、昭和三十五年(一九六〇)にはプリンス化粧品やハイネオ化粧品の他、東南アジア向け製品の生産効率化を図るため、東今里工場の増改築に着手した。

折しも、日本の景気は高度経済成長がますます加速していた時代。世間では「消費は美徳」の言葉の下、消費ブーム、レジャーブームが巻き起こっていた。
 こうした好景気に煽られて、昭和三十八年(一九六三)、岩瀬健次郎商店は、過去最高の五億一千万円の売上を計上した。

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最大の危機を乗り越え、さらなる飛躍へ

昭和38年5月26日、社内研修旅行(東京)日光・鬼怒川

昭和38年5月26日、社内研修旅行(東京)日光・鬼怒川

満ちたかと思えば、引き潮は突然やってくる。世の中の景気も同じ。よくなったと思ったら突如、健次郎たちに衝撃を与えた。大手化粧品メーカーが相次いで倒産したのだ。中には、岩瀬健次郎商店の得意先も少なからず含まれていた。結果、健次郎は巨額の貸倒れを抱え、あの最高売上高を計上した昭和三十八年(一九六三)三月期以降、まさかの資金難にあえぐこととなった。

壽化学工業でも、商品を納めた問屋の倒産が相次ぎ、プリンス化粧品も販売不振におちいり、健次郎はいよいよ窮地に立たされた。土地やいくつかの不動産を、この不況によって手放さざるを得なくなったのだ。

もちろん、手を差し伸べてくれる人も少なくはなかった。中でも九州で化粧品・雑貨の問屋をしている社長は、正式な借用書も作らず、何千万円もの大金を健次郎に渡した。

岩瀬健次郎商店の苦境は昭和四十一年(一九六六)まで続いた。それでも倒れずに踏ん張ることができたのは、健次郎の人柄と、誰一人として退社することなく懸命に努力した社員、そして、支援してくれる人達のお陰であった。健次郎はよく「そのとき助けていただいたから今があるのや。その恩は一生忘れてはいかん」と言っていた。

昭和四十三年(一九六八)には道修町の社屋に本社ビルを建築し、それまで木造モルタルの社屋が鉄筋コンクリート地上六階、敷地面積六十二坪のビルになった。ちょうど化粧品産業も回復の兆しを見せていた頃で、岩瀬健次郎商店でも売上が十億円近くにもなり、会社の雰囲気も様変わりしていった。
 しかし、基本は変わらない。それは健次郎が築き上げた「仕入れて喜ばれ、売って喜ばれる会社であれ」という言葉に代表される、会社の基本精神である。

昭和四十四年(一九六九)四月、壽化学工業は株式会社東洋ビューティケミカルに社名を変更した。

そして昭和四十八年(一九七三)、健次郎に大きなチャンスが到来した。東洋ビューティケミカルがアメリカの大手化粧品メーカー、マックスファクターの洗顔クリームの下請け会社に採用されたのだ。「アメリカの品質基準に合う技術力を持つ会社」であるというのが、その理由だった。
「町工場から出発したような我が社の技術が、世界にも通用するのか!」

健次郎は、自分の歩んできた道が間違いではなかったことを強く確信した。

昭和四十八年(一九七三)のオイルショックのピンチも乗り越え、翌年、近畿化粧品原料協会が設立された際に、健次郎が初代会長に任命された。この年、株式会社岩瀬健次郎商店は資本金を四千万円に増資し、さらなる飛躍へと向かって翼を広げていた……。

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